星の見えないこの街で
この街は星が見えない。
ビルの明るすぎるイルミネーションのせいか、大気汚染のせいか。
その両方か。
ちなみに、私は先日の健康診断で両眼とも視力1.5を叩き出したので、私の目が悪いのではない。
もちろん裸眼で。
視力が良いのは、昔からの数少ない取り柄の1つ。
私の住んでいるマンションは、川沿いの煌びやかなビル群から徒歩30分の距離にある。
この街のビルは、東京よりも形やイルミネーションのデザインが凝っていて、とても派手だ。
単調な四角柱のビルを探す方が難しいかもしれない。
赤、青、黄色、緑・・・
ビルの壁を上から下まで駆けめぐる光。
ビルがよく見える場所では、毎日必ず誰かがスマホを掲げて写真を撮っている。
ビル群を一望できる川の対岸が、この街随一の夜景スポット。
一般的に「外灘(The Bund)」と呼ばれる。
都会に住んだことがなかった私は、初めてビル群とイルミネーションを見たときには心が躍った。
写真もたくさん撮った。
スマホの画像フォルダには、街のシンボルであるピンク色のタワーが並んでいる。
しかし、2年半経った。
ギラギラと輝くビルは、私に美しい思い出以外の何も与えてはくれない。
毎日見ても、旅行や出張で一度だけ見ても、感想はきっと同じ。
「綺麗だね」
その光を放つビルさえも霞んでしまうことが珍しくないのだから、やはり星が見えないのは大気汚染のせいもあるのだろう。
今年ももうすぐ汚染の悪化する季節を迎える。
昨年までは、この街でどうやって生きていこうか、と毎日考えていた。
仕事に就けない、友人もいない。
友人どころか、言葉の通じる人がいない。
結局、多忙な夫を支えることを頑張るしかなく、毎日せっせと部屋を掃除し、クックパッドと睨めっこしながら様々な料理に挑戦した。
働いている夫に比べれば全然大したことはないのだけど、異国での生活は決して楽ではなかった。
最初は1人で買い物に行くのも、バスに乗るのも怖くて、小さな子どものように緊張したのを覚えている。
しかし、「働いている夫に比べれば全然大したことはない」と思うと、夫に不安をぶつけてはいけない気がした。
夫のストレスが10だとすると私はせいぜい1くらいなのだから、私はいつも夫を労わらなくては。
家族や友達にも話しにくかった。
心配されたり、憐れまれたりするのは嫌だったし、「働かなくても生活できるのに贅沢な悩みだ」と思われる気がして、打ち明けられなかった。
笑い話にできるくらい時間が経ったら、ようやく話せるくらい。
毎日たったの1だとしても、ゼロではなかった。
確実にストレスは溜まっていった。
本当は私も誰かに労わってもらいたかった。
夫は、休日は家にいることが多かった。
ずっと寝ているか動画を見ているかのどちらか。
私はあまり寂しがり屋ではなく、お一人様も平気(むしろ好き)、ホームシックにもならないし、「旦那元気で留守がいい」と思っている。
だけど、私は夫の目に映っていないのかなと、さすがに虚しくなった。
毎日部屋がきちんと片付いていて、食事が出てくれば、私なんかいなくてもいいんじゃないのか?
私は大好きだった仕事を辞めて、家族や友人たちとも離れて、夫の仕事のためについてきたのに。
夫もついてきてくれと言ったし、夫の会社も同行推奨だったから、思い切ってついてきたのに。
最終的に決断したのは私自身だから、恩着せがましいことは言いたくないけど。
それでいて、夫は触りたい気分の時は好き放題に触ってきた。
朝だろうが、リビングだろうが、私のテンションなんかお構いなし。
「私はセックスのできる家政婦なんでしょ」
夫に思わずそんな言葉を投げつけて、けんかになった。
仕事のプレッシャーと戦うだけで精一杯なのに、家とスーパーを往復するだけの嫁に「もっと私にも気を遣え」と泣き喚かれ・・・
客観的に見たら、夫の方がよほど気の毒だっただろう。
夫に気を遣わせないように、手を煩わせないように暮らすのが、子無し駐在妻の務めみたいなものなんだから。
「こんな生活、つまらない」
誰かに言おうとして、何度も飲みこんだ。
自分の生活を他人に面白くしてもらおうとしてるの?
そんな言葉を口にしてはだめ。
つまらないのなら自分の責任。
嘆いている暇があったら、何とかする方法を考えろ。
夫の帰りが遅くなる日、わけもなく一人で外灘の夜景を見に行ったことがあった。
やはり星は見えなかった。
川の向こうに見えるビルたちが、ステージに立ったアイドルのように歌い踊る。
この美しい夜景を愛でるだけであと4年も過ごせるだろうか。
せめて星の1つでも見えれば。
自分の歩いていく方向が分かるのに。
ビルの灯りに照らされることのない暗い心を抱えて、多くの人々で賑わう外灘を後にした。
こんな鬱々とした毎日を送っていた頃を思えば、その後の私は随分頑張ったのではないかと思う。
2018年は、在住日本人のバスケサークルに加入し、現地企業でバイトを始め、現地人の友達もできた。
2019年には語学試験にも合格した。
以前は夕方5時頃までには買い物を済ませていたけど、バイトの後にスーパーに寄って帰ると早くて夜7時半になる。
疲れたなぁ、買い物袋重たいなぁ…と、マンションに入る手前で夜空を見上げた。
すると、マンションの棟と棟の間に星が1つ見えた。
1つだけだったけど。
あれ?
なんだ。
見えるんだ。
夜、ビルの光が遮られる場所なら、見えるんだ。
今まで気付かなかった。
バイトを始める前はいつも暗くなる前に帰宅していたから、見えなかったんだ。
私の毎日はもうつまらなくない。
しかしながら。
この街での生活はすでに折り返し地点を過ぎた。
日本に帰ってからどうするのか?
今度はそれを考える時期にさしかかっている。
夫が今の会社で働き続けるなら、また数年後に転勤になる可能性が高い。
国内でも、海外でも。
そうなると、私は正社員での就職は難しいのだろうか。
アルバイトや派遣など、非正規で働くことになるのか。
じゃあ、また塾講師のバイトする?
塾業界は常に人手不足だし、経験者は優遇されるので、採用されるのはおそらく簡単だ。
だけど、塾講師の仕事は好きだけど向いていないので、またやりたいかと言われると正直考えてしまう。
生徒との戦いの日々は、やりがいは確かにあるが、私には辛すぎる。
夫もあまり歓迎しないだろう。
私が塾で働き始めたら、授業を作るのに持てる時間の全てを注ぎ込んでしまい、毎日家事をする余裕がなくなるのは目に見えている。
生活時間もずれる。
塾は13時半~22時頃が定時なのだ。
土日休みではない場合も多い。
だったら、語学やバイトの経歴を活かすか…
私のバイトは営業アシスタント。
内勤なので商談に行ったりはしないが、顧客と電話やメールのやり取りはあるし、営業の仕事の全体像も一応分かっているつもりだ。
そう思っていたところ、ある駐在妻友達に言われた。
「バイトしてたことを履歴書に書いたら、違法就労について何か言われないかな?」
この国では駐在員の家族の就労は認められていない。
私は「まぁバレないでしょう」という仕事をしているけれど、万一警察にバレたら夫もろとも強制送還なのだ。
夫の会社にもどれだけ迷惑がかかるか分からない。
確かに、「本当は法律違反だけど、バレないような職場だし、周りの駐在妻もバイトしてたので私もやってました」なんて採用面接で言えるか。
規範意識や危機管理意識が低いと見なされてしまう。
じゃあ、4年半もの間、一切働いていなかったことにしなければならないの?
違法ではなかったかのように、何か上手い言い訳を考える…?
今頑張っていることが、将来の障害になるかもしれないなんて。
今年ももうすぐ大気汚染の悪化する季節がやって来る。
光を放つビルさえも霞む。
見えていた星も見えなくなる。
歩いていく方向が分からなくなる。
次の夏を迎える頃には、また星が見えるようになっていてほしい。